ぼくのあしあと

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恋愛の作法 ー諺(ことわざ)から学ぶー

      2016/01/25

rohan0101恋愛とは、人間生来の課題である。男女として生を賜わった瞬間から、恋愛に生きることを運命づけられている。そして、われわれは言い知れぬ淡いもやもやとしたら感情を、「恋愛」と称する。

「恋愛とは何か」をわれわれは経験として把握している。そして、言葉で定義づけることはしないし、むしろそれは恋愛の本質に反すると直感している。しかしながら、恋愛を語りえぬものにするのはわれわれの意思である。われわれはあらゆる経験から教訓を得ようとするのに、なぜ恋愛を殊更無視するのだろう。本稿は、恋愛における直観主義に対するアンチテーゼ(恋愛における論理主義)を提示する試みである。

ところで、賢明な読者は次のような疑問を直ちに抱くであろう。「著者に恋愛を語る資格があるのか」。まず、私には人様に語れるほど経験はない。そして、仮に人様に語れるほどの経験があったとしても、一個人の経験を一般化することは学問的態度として不正確極まりない。ではどうしようか。そこで、諺をクローズアップしようと思うのだ。

諺とは、数え切れないほどの人々が、途方もない時間をかけて、古今東西における経験を凝縮した教訓である。日常のありふれた言葉で語られながら、本質を見事につらまえている。諺は、受験勉強で無理矢理覚えさせられる嫌なやつではない。諺は、先人が人生を一生懸命に生きた、生命の証なのである。「恋愛とは何か」。先人に(諺に)問うのが、われわれの目標にとり最も有効適切であろう。ー

恋心とは何か

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(1) 恋心は人を惑わせる

 諺の曰く、「恋の闇」「恋は曲者」「恋は盲目」「恋は思案の外」。恋心を抱くと、理性的な判断力や冷静さを失い、いうことなすこと支離滅裂になってしまう。そのありさまを、「恋の闇」(恋心ゆえ心の中が真っ暗で、どうしていいのやら、あることをすればどういう結果になるのやらわからなくなってしまう)、「恋は曲者」(正常な人を別人のごとくふるまわせ、思慮分別を失わせる恋の真理を、曲者のしわざにみたてる)、「恋は盲目」(恋をする人は恋心というあいまいな感情のために、まるで人が変わったかのようになる)、「恋は思案の外」(いったん恋に落ちると、どんなに理性に勝った人でも、容易にそれから抜け出ることはできない。常識や普通の理屈の通用しないのが恋の世界である)と表現することになる。

それゆえ、諺の曰く、「恋は欠点を見ず」「屋烏の愛」。恋心を抱くと、相手の欠点が見えなくなるほど相手に陶酔してしまい(「恋は欠点を見ず」)、相手に関係のあるものまで愛するほど相手を深く愛することになる(「屋烏の愛」。カラスといういやな鳥も、相手の家の屋根にいるならば、それをかわゆく見てしまう)。

(2) 恋心を失う

 諺の曰く、「かわいさ余って憎さが百倍」。愛する気持ちが強かっただけに、なにかのはずみで憎いとなったら、今までの愛情までいまいましくなってしまうのである。愛する気持ちと憎む気持ちは、方向が違えども大きさは同じなのである。

(3) 恋心は永遠の課題

 諺の曰く、「恋の重荷」。恋心に形はないが、恋心を抱く者に重荷を負うごとき苦痛を与える。しかも、道ばたにおろして一息入れるわけにもいかない。またその到来も不可避となれば、始末に悪い重荷である。恋がつらいからといって、恋から逃れることはできないのである。

論理的考察

恋心は人を惑わせるものであり、理性的な判断力や冷静さを失わせるものとされる(1)。そこで、「恋心に惑わされても仕方なく、それが恋心の本質である」と即断し納得するのは早急である。恋心が一般的にそういうものであることを前提に、(A)恋心の一般的属性を仕方なく許容するのか、(B)恋心の一般的属性を問題視し意識的に対処するべきと考えるかで、立場が分かれる。本稿は、恋愛における直観主義に対するアンチテーゼ(恋愛における論理主義)を提示する試みである以上、本稿と(B)とに親和性がある。もちろん、論理主義者は理性ですべてが解決するなどとは決して主張せず、感性や直観の重要性を認識している。論理主義者はむしろ、恋愛という領域において理性を殊更に排斥し、感性や直観のみに支配される排他的領域を形成しようとする、直観主義者のお花畑思考をこそ批判するのである。恋心を抱くと、相手の欠点が見えなくなるほど相手に陶酔してしまうとされるが(1)、そのような誤りを犯さない方法はただ一つ、「何が良いか悪いかの判断基準を自分なりにもち、どのような相手にさえそれを粛々と適用すること」である。論理主義者は、ただそれだけを要求する。直観主義のように、一時の感情に呑み込まれ溺れ死ぬこと、ただそれだけを回避したいのである。

恋心は永遠の課題であり、恋がつらいからといって、恋から逃れることはできないとされる(3)。たしかに、恋は自分のみならず相手がいて初めて成立する精神作用であり、自分の思い通りにいかないことは多々あろうし、それがつらいと感じせしめるのも無理はない。しかしながら、つらいと感じる感情にも程度差がある。そもそも、つらいと感じるかどうかは、「自分の理想とするもの」から逸脱しているかどうかと密接にかかわっている。直観主義者は、感性や直観のみに支配される領域として恋愛を観念してしまったがために、「自分の理想とするもの」が何かを意識的に省察しないまま、「暗黙の裡に形成されている」「自分の理想とするもの」に振り回されているのである。ここで、自分の理想とするもの」を明確化し、恋愛を積み重ねていく中で絶えず意識的に省察しなおす態度を論理主義者は要求するのであり、そうすることで恋愛を冷静に考察でき、恋愛に人生を振り回されることはないのである。          

男ってどんなやつ、女ってどんなやつ

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(1) 男も女も浮気性

 諺の曰く、「男心と秋の空」 、「女心と秋の空」。 男の愛情も女の愛情も、さめやすく移り気である、秋の空の天候が移ろいやすいのと同じように。

(2) 男の魅力、女の魅力

 諺の曰く、「男は気で老け、女は顔で老ける」、「男は度胸女は愛嬌男」。男の年は志や度胸しだい、女の年は顔や愛嬌しだい。

(3) 情けない男、情けない女

 諺の曰く、「男やもめにうじがわき女やもめに花が咲く」。男が妻に死なれると、身の回りの世話をする者がいなくなるから、生来の「無精者」はますます無精となって不潔になる。一方、夫に死に別れた未亡人は喪服に色香を包みかね、おのずと新しいロマンスの花が開く。男は妻がいなければ何もできず、女は夫がいなくても万事安泰である。そして、諺の曰く、「乙女は『いや』と言って受ける」。女心は男性にとって理解できぬもので、女はいやと口で言いながら心では承諾の意を示す。男は女にいつも振り回される。

他方で、諺の曰く、「悪女の深情け」。醜い女ほど、男の愛を失うまいとして、献身的な愛情をささげて男に尽くす。しかし、いや気のさしてきた男にとってはそれがありがた迷惑である。自分に自信のない女は、男に尽くすことによりその埋め合わせをしようとするが、それは男のためではなく、自分自身のためなのである。

論理的考察

男の愛情も女の愛情も、さめやすく移り気であるとされる(1)。しかしながら、これは直観主義を前提にした嘆きであり、われわれが論理主義を採用する以上、(程度の差こそあれ)さほど拘泥するべき問題ではない。

男の年は志や度胸しだい、女の年は顔や愛嬌しだいとされる(2)。しかしながら、このような考え方は伝統的な男女差別観や男女役割峻別観に基づくものであり、男女平等を基本とする現代社会に生きるわれわれとしては、このような伝統的固定観念に惑わされてはならない。たしかに、社会的実態として男女平等は果たされていないが、実態がそうであるがゆえに理念が捻じ曲げられてよいことにはならない。むしろわれわれは、男女という区別を殊更強調せずに、ありていにいえば一個人に「男らしさ」も「女らしさ」も求め、一個人を全体として見るべきである。

どんな人を選べばいいのか

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(1) 地位で選ぶな、見た目で選ぶな

 諺の曰く、「恋に上下の隔てなし」。身分の上下はあくまでもあとからできたもので、人情の自然さとは無関係である。相手の社会的地位ではなく、相手の個人としての魅力を愛さなければならない。しかしながら、諺の曰く、「婿は座敷からもらえ嫁は庭からもらえ」。婿は自分の家より上位の家柄の所から貰うとこちらの家格が上がり、嫁は下位の所から貰えば威張ったりしないので、家のためによい。たとえ好いた者同が結婚するとしても、互いに育った環境の違い、後ろ立ての力がやがて物をいうことになる。

 諺の曰く、「女は己を悦ぶもののために容づくる」。女というもよら自分のことを喜んでくれる、すなわち愛してくれる男のために、もっと喜んでもらおう、もっと愛してもらおうとしていっそう顔を美しくし、着飾る。しかしながら、諺の曰く、「美は花に過ぎず」、女は鏡をものぞきこむ事が多ければ多いほど、それだけ家庭を省みない」。美は、時の流れとともにあせていく花にすぎず、おしゃれな女は家庭を省みない。

 諺の曰く、「気の弱い男が美人を得たためしなし」。恋の秘訣は、押しの一手である。

 論理的考察

相手の社会的地位ではなく、相手の個人としての魅力を愛さなければならないとされる(1)。この前提には、「社会的地位は本人の人間性とは無関係のものである」という価値判断があり、主に身分制度が念頭に置かれている。しかしながら、現代において身分制度は存在せず、現代国家においていかなる職業も原則自由に開かれている。それゆえ、ある社会的地位を有する個人は、それに見合う才能があったり努力をしたと評価でき、社会的地位と人間性には高い相関性があるのである。したがって、たしかに社会的地位のみに拘泥することは「人間性を評価するべき」という根本理念に反するが、社会的地位を考慮することは人間性判断にとり非常に重要であることを無視してはならない。

美は、時の流れとともにあせていく花にすぎず、おしゃれな女は家庭を省みないとされる(1)。これは直観主義者が「無意識のうちに」美を重要視しすぎており、それがために一時の感情に呑み込まれ溺れ死んでいる惨状に対して、警鐘を鳴らしているものである。恋愛において美を考慮することを論理主義者は否定しない。しかしながら、「見た目の美しさ」が「人間性の美しさ」を高度に推認させてしまっている、しかも無意識のうちにそうさせてしまっている感情や直観の危険性(直観主義者の危険性)を、論理主義者は危惧するのである。「顔で相手の良し悪しを判断するべき」という主張に論理主義者は賛成しないが、仮にそういう主張を抱くにしても、意識的に主張するのか、無意識のうちに主張しているのと同様の状態になっているのかでは、雲泥の差があることを直観主義者は認識するべきである。どんなものでもよいから、自分なりの判断基準を形成するべきである(「良い人が良い」とするのは判断基準ではない)。

まとめ

人間生来の課題である「恋愛」を、直感的ではなく論理的に考察しようとする試みは、先人が人生を一生懸命に生きた生命の証たる「諺」を用いてもなお、困難な道のりであった。つまるところ、論理主義は直感主義の弱点を批判できこそすれ、自らが積極的に指南を出来ているかは疑問であり、論理主義も未成熟である。しかしながら、恋愛のいて論理的観点を導入すしようとする枠組みを構築するか否かは決定的に重要であり、その点が論理主義の最大の功績である。今後は、以上に記した種々の観点を前提に、さらなる類型化及び体系化が追及されるべきことになる。

無能な著者は、締めくくりとして「読者の思考に委ねる」だとか「今後の議論の発展に委ねる」だとか記述するが、私はそのような無責任な逃げ口上を用いない。今後とも論理主義の展開と発展に寄与していく。論理主義とは、常に自己を革新していく理性と経験と勇気のセレナーデである。

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法律を基軸として、あらゆる分野の素養を育む。いかなる物象についても、論理的・体系的・網羅的に語りたがる。もちろん、最終的には直感に依存する。

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